嶽心荘の由来

1, 角間温泉(嶽心荘以前の界隈の様子)

嶽心荘以前より、この場所は、興隆寺の寺領であり、温泉が湧いていました。

宝永年間(1704~1710年)、八世住職が浴場のある薬師庵を建てたのが始まりです。

この庵は歴代の住職の隠居所となったことから、「隠寮」と呼ばれてきました。

 

【角間温泉】

嶽心荘のある角間温泉は、蓮如上人(浄土真宗の中興の祖、室町時代)

の発見と伝えられる歴史のある温泉地です。

豊富な湯量と効能に優れた泉質、おいしい食文化があり、

近世では、林芙美子、古川英治、横山大観などの文化人が訪れてきたことで有名です。

近隣の観光スポットには、渋温泉、湯田中温泉、小布施があります。

 

2, 横山大観と嶽心荘

昭和4(1929)年、世界大恐慌の最中、「隠寮」の再建計画は、角間地区の

「村おこし」として、横山大観 画伯のアトリエ建築の計画になっていきました。

横山大観 画伯も、この趣旨に賛同し、 建築図面に朱を入れ、 デザインを施すなど積極的にこの活動を支援しました。

当時の様子は、囲炉裏のある茶室が、画伯の東京にある自宅客間「鉦鼓洞」の雰囲気を

模して作られたことからもうかがえます。

また、「嶽心荘」の命名も画伯によるものです。玄関を背に、左手に見える高社山の

眺望からそのインスピレーションを受けたと伝わっています。

 

横山大観画伯は、計画当初より「日本美術院のメンバーらをはじめとし、みんなで美を追究する拠点としたい」という思いを裏付けるように、

この建築には、荒井寛方* 画伯、前田青邨** 画伯ら複数の日本画家が参画していることが記録にも残されています。

その記録によれば、特に、荒井寛方画伯の助力は大きかったようです。

前田青邨画伯は、長屋門の下絵を描いています(長屋門は移築され、現況は不明)。

嶽心荘の完成披露式には、大倉財閥の大倉喜七郎 氏をはじめ、

日本美術院の主要メンバー10人が招かれ、三日間にわたる祝宴が開かれました。

 

しかし、その後は手紙のやりとりが主になり、大観画伯の再訪問は、昭和7(1932)年が

最期になりました。

それには、ローマ展の準備(結局、開催は見送らている)などの事情があったようです。

その後の日本は、五・一五事件などがおこる不穏な時代に突入していきます。

 大観画伯と嶽心荘は、疎遠にはなりましたが、

昭和20(1945)年の空襲で焼失した 東京の自宅を再建するとき、 その絆が功を奏しましたようです。

『囲炉裏のある茶室』は、嶽心荘の象徴的な一室ですが、

画伯の東京にある自宅客間「鉦鼓洞」の写しであったからです。

 

*荒井寛方・・・日本画家。仏画を得意とし、インドのアジャンターの壁画、

        法隆寺金堂壁画の模写にも参加している。 

**前田青邨・・・日本画家。武者絵の第一人者として名高い。

       文化勲章受章(昭和33年)。元東京芸術大学学長、平山郁夫画伯の師。

3, 第二次世界大戦中~平成20年までの嶽心荘

第二次世界大戦中~直後

昭和19(1944)年、住友吉右衛門(住友財閥当主)一家の疎開先となり、以後10年間

使用されました。

 

戦後:昭和32年~平成19年まで

昭和32(1957)年、企業主の別荘となりました。

その後は、旅館の別館として使用され、著名人が多数訪れています。

日本、韓国のテレビドラマなどのロケ地にもなりました。

しかし、経済情勢の変化などにより、建物は次第に荒れていき、嶽心荘は平成19(2007)年に再び興隆寺に戻りました。

 

平成20(2008)年以降

嶽心荘は、大澤智恵子(UDヘルスケア研究所 所長)により 再生が始まりました。

 

→ 続きは、「大澤智恵子と嶽心荘」